『R.M.N.』クリスティアン・ムンジウ

原題:R.M.N.

監督:Cristian Mungiu

 

東京国際映画祭にて鑑賞

 

人間にとって「合理的」の「理」とは、必ずしも論理や理性の「理」ではない。

正当化すべき感情が先立つとき、理屈は単なる手段へと堕す。

 

地元の働き手は出稼ぎへ行き、人手不足となったパン工場。そこにスリランカ人が雇い入れられると、村の住人たちは猛反発。「奴等の触ったパンなど食えねぇ」と、スリランカ人が解雇されるまではパンを不買すると言う。教会で開かれる集会。感情的な意見の激しい応酬という意味では確かにクライマックスではあるが、カメラは一切動かず、編集もなく、同じフレームのなかの「定位置」の人々を凝視する。カメラの位置は決して臨場感を搔き立てるものではなく、かといって完全に俯瞰でもない。立ち会っている感覚と、一歩引いた視線を併せ持つ、絶妙な距離感。多数対少数という構図に見せかけて、多数内の少数連合であったり、少数内の強者と弱者であったり、各々の思惑も目的も根拠も心象も空中分解しながら無理矢理に徒党を組もうとする。議論よりも愛人の手を握ることにばかり固執する主人公(?)の男は当然「浮く」のだが、それが次の瞬間〈中心〉へと変わる。そして、「秩序」を求めた混沌は、現世と訣別した者へと導かれてゆく。人間が平等に畏怖するものへと頭を垂れるだけ。

 

問題があれば必ず解決を模索すべきである。この村において本質的な解決を求めるならば、パン工場の人手不足がなぜ起こっているか、どうしたら解消するかのはずである。しかし、そういった原因や結果へ思考は至らず、とにかく外部の者へのヒステリックな排斥感情のみで駆動される問いかけにあるのは解決でも解消でも解答でもなく、刹那的な発散であり、ノスタルジックな「現状」にしがみつくことなのだろう。しかも、そのノスタルジーは絶対的な「かつて」にあるのではなく、せめて今よりはマシなはずの相対的な過去を現在に呼びさまそうとしているだけなのだ。良かったかどうかすらわからない昔にだけ注がれる眼差し。誰も今の現実を直視せず、今がどうつくられ、どこに向かっているかへの興味は完全に空洞化。スリランカ人を追い出した先に何か光明が見える訳でもないのに、とにかく追い出すことが目的である。そこに一体、どんな希望があるのか?

 

言葉とは本来、他者との理解を模索するための手段である。言葉を持つことで分断されたとも言える自我たちは、言葉を手放せば一つになれるか?

 

ルディ(主人公の息子)が言葉を「拒絶」するのは、大人たちが言葉を「失っている」からなのかもしれない。

 

東京国際映画祭】『R.M.N.』経済の悪魔を論理の悪用でハメて焼く ...