『理大囲城』香港ドキュメンタリー映画工作者

原題:理大圍城

英題:Inside the Red Brick Wall

 

 

 

ある場面だけでその映画の記憶が心に深く刻み込まれるとき、その場面には言葉にならないものが蠢いている。本作の終盤に出てくる「階段」がまさにそれで、カメラが捉えている人物たちの表情もわからないのに、彼らの内面へと観ている自分の心は吸い寄せられてゆき、あらゆる距離を超える。それは、そのときそこに、社会との対峙とも双方のイデオロギーとも別次元の個人の葛藤が在ったからなのだと思う。彼らをフレームにおさめているカメラの戸惑いもそこには「映って」いて、被写体とカメラと観賞者が渾然一体として〈いま〉に立ち会う。

 

膨大な撮影映像を編集していくなか、その場面こそがクライマックスとして起ち上がって来たこともあって、本作は「香港理工大学包囲事件」の最初の二日間に焦点が絞られることになったのだという。〈中心〉のない(を失いゆく)大学内の若者たちの姿の記録として、〈中心〉を提示しない「香港ドキュメンタリー映画工作者」という作り手は、見事な「問い」をひとつの答えとして提示する形で作品を結実させた。デモ参加者も学生も、警察だって「どうしていいかわからない」「何が正解かわからない」、そんな混沌を整理したり裁いたりすることはない。各々が桎梏との格闘を抱えて即発寸前となった内面の行き場のなさを、歩哨のようなカメラが黙って撃つ。目に見える煙や埃、耳を突き刺す破裂の音、それ以上に映像の向こうで暴れ方を解らずに立ち竦む魂たちの佇まいが「見える」。

 

ヘルメットにマスク、そして傘。外敵から護りたい何かがある。しかし、それらで覆ったものは護られると同時に、その「傘下」において動きを縛られる。囲城されたから籠城するしかない。解放されることが投降することとなり、自由を求めれば裏切りの自責に苦しむことになる。視点や規準を定めれば、表裏も当否も明暗も、すべてが決まって、かたが付く。しかし、そこに人間が求める答えはない。だから、私たちは去就のあいだを彷徨い続ける。この極限な状態に、人間の葛藤の普遍が逢着している。

 

「階段の二人」は結局、階段を下りたのか。それが示されないことが、本作の矜持である。政治の目的は勝敗だが、文学にとって勝敗とは語りたいことの手段にすぎない。

 

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