『フランス』ブリュノ・デュモン

「映画批評月間 Vol.04 フランス映画の現在をめぐって」にて鑑賞

(会場:ユーロスペース

 

 

ブリュノ・デュモンがレア・セドゥを主演に映画を撮るという事実自体が既に興味深いのだが、実際に見てみると、「スター映画」の変化球としての居心地の悪さ、社会風刺のストレートさに照れくさくなるようでいて核心が避けられているじれったさ、そうした「普通」を装った感が漂う奇妙さに今回のブリュノ・デュモンの意図を勘ぐってしまう。

 

レア・セドゥ演じる主人公フランス・ド・ムールの内面がとにかく「見えない」。ひたすら自分がどう見えるかを意識し、自らをどう見せるかを考えている彼女の視点は常に、画面の向こうに在る。だから、そもそも彼女にとって内から見た世界(自分の視点でとらえた世界)そのものが消滅しかかっているのかもしれない。それは、テレビというメディアで活躍し、衆目を集めることに手応えを感じる彼女にとっては、きわめて「自然」な現象なのかもしれないが、そうした不自然にズレを感じ始め、自らに巣くう「他者の眼」をデトックスしようとする。

 

そんな時、大衆に侵食されない「眼」と出会う。彼女の内なる自己は、彼に自然と引き寄せられる。ところが、彼こそがまさに大衆の眼の先鋒であったことを知った時、彼女の自己再生計画は座礁する。

 

絶対的な自己として感情の放出がなされるはずの身内の不幸においても、彼女はどこまでも他者の眼で思い描くことしかできない。自動車事故におけるカメラアングルやスローモーションは、演出を加えずにいられない(他者=大衆の眼にどう映っているかを意識せざるを得ない)彼女の思考の表出なのかもしれない。

 

自分が何を視るか、ではなく、彼らは何を視ているか、それに翻弄されることを自覚しつつ、その翻弄をこそ自らの技巧へと昇華させようとする彼女に、大衆の眼との訣別を宣言する彼が迫り来る。彼女は何を信じ、何を受け容れるのか。

 

最後の場面に登場する、「何、見てんだよ」と睨み返す青年。人そのもの行為そのものへの絶対的な関心よりも、一般との相対的差異が産み出す奇異、そこにこそ現代人の視線は向かう。それが見られようとして為されるにしろ、見られるつもりなく為されるにしろ。その視線は果たして、どこから出ているものなのか。ラスト、彼女は眼を見開いたり閉じたりを繰り返す。閉じたとき、「視線」はどこから出ているのだろうか。視点は自らの眼にあるのだろうか。

 

France (film) - Wikipedia