『氷の城』タリアイ・ヴェーソス(国書刊行会)

『氷の城』タリアイ・ヴェーソス

 (朝田千惠/アンネ・ランデ・ペータス訳、国書刊行会、2022年)

 

20世紀ノルウェー文学を代表する作家・詩人であるタリアイ・ヴェーソスは、ノーベル文学賞に30回もノミネートされたという。初めて読む私はその情報に畏れ構えてしまったが、読み終わるとその情報がむしろ小さなものに思えて来る。

 

翻訳者の一人であるアンネ・ランデ・ペータスは、グーリ・ヴェーソス(タリアイ・ヴェーソスの娘)との話のなかで、「(タリアイ・)ヴェーソスは、ショーイング(showing=見せる)であり、テリング(telling=教える)ではない」と言われたという。だから翻訳するうえでは、「ショーイングをテリングに変えないよう気をつけて」と。

 

本作を読みながら、行ったこともなければ想像も容易くないノルウェーの自然豊かな田舎の暮らしが、目の前で展開するように浮かび上がり、時として自分がそのなかに自ずと存在しているかのように感じられたのは、タリアイ・ヴェーソスの表現それ自体の為せる業であると同時に、その真髄をたいせつにした訳者二人の仕事の賜物だったのだろう。氷を溶かさず、その美を説かず、ただただその姿を提示してくれる。

 

「訳者あとがき」で紹介されているタリアイ・ヴェーソスの言葉が印象的だ。

 

「本を読むとき、読者は先入観なしに読まなければならない。そうすれば、物書きが言おうとしていることを感じ取ることができるかもしれない。読む人が冷静に理解できるようなことを書いてはいけない。心で感じることしかできないものも、あっていいのだ。読者の心の奥に閉ざされている部屋を開けるチャンスを与えなければならない。読者に近道を歩ませてはいけない。——幸いなことに、読者は読者本人が思っている以上に、わかる力を備えているのだから。」(タリアイ・ヴェーソス『物書きについて』)

 

そうしたヴェーソスの物書きとしての信念は、語られずとも作品から読者に向かって溢れ出す。「謎」として解かれるのを待つ〈秘密〉が、はっきりとは明かされないであろうことを悟りながら読む。見たくないからそう願うわけではない。もうすでに自分のなかに在るからそのままでよいのだ。言葉にされたら消えてしまいそうだし、言葉にすると見えなくなりそうだから。

 

大人になれば、社会に出れば、言葉として明示したものだけが存在を許される。しかし、それは共通の認識のなかで確認するためだけに「在る」とされているものに過ぎない。人間に本来生起する感情は、自然の在りようと同様に、人為へは換言できない。しかし言葉の可能性とは、〈指示〉との狭間に無限に広がる想像の喚起にもあるはずだ。それを信じているからこそ、ヴェーソスによる言葉の編み物には、ただ黙って見る者だけに許される光景が起ち上がる。

 

この物語をずっと包み込むものを一言で表現すれば、静謐だとか透明感といった言葉が選ばれそうだ。しかし、溢れんばかりの音の洪水と何一つ見えない深い闇といった〈対極〉が、本作のなかにはたくさん描かれる。瀑音が際立たせる静寂。深い谷に射し込む光。

滝に氷の城が築かれたとき、水を落下させていた高低は消滅する。落差の序列から解放され、両極は溶解する。渾然一体とした世界は始まりと終わりを繋げてしまう。生が死をのみこみ、死が生をのみこむ。現実が幻を見せ、幻が現実に気づかせる。

 

シスとウン、ふたりの少女のあいだで通った感情は、きっと言葉にならないものだった。シスとウン、ふたりの少女が鏡のなかに見た像は、言葉にすべきものではなかった。流れを止め、形を与えてしまう言葉。水に形を与える氷。孤独な権威が宿る城。固まり止まった形と時間。それらが崩れ、流れ出し、シスは〈ウン〉と動き出す。

 

最終章はこう始まる。

「氷の城の最期を目にする者はいない。それは夜半、子どもたちがみんな寝床に入ったあとのことだ。

 そのときを目の当たりにできるほど繋がりの深い者はいない。無音の混沌の波は遠く寝室まで空気を震わせるだろうが、目を覚まして〈いまの、なに?〉と訊ねる者はない。

 だれも知らない。

 さあ、氷の城が崩れる。秘密やなにもかもを抱え、滝に身を委ねる。荒々しく崩れ落ち、そのあとは無。」

 

無にこそ、すべてが在る。終わらなければ、始まらない。

 

 

*作品世界を存分に堪能するための、本書の装丁。表紙などの視覚的感触(装画はノルウェーの画家アイナル・シグスタード Einar Sigstad によるオリジナル版画)や、内側の優しい光を感じさせる黄味。鮮やかな黄色をしたスピン(栞紐)は、読み止すたびに氷の世界に光が届くかのよう。そして何より、本文のレイアウト(文字数や行数、文字間隔)が、本作の世界観と見事なまでに呼応し、読み手の呼吸を導いてくれる。とても大切に大切に作られた本であることが伝わってくる。(そして、担当編集者によるこの記事を読むと、それがよくわかる。)

 

*本作は「タリアイ・ヴェーソス・コレクション」の第一弾として出版されたものであり、今後、半年後には『鳥』(長編小説)、2023年春には『風』(短篇集)が刊行予定とのこと。実に楽しみ。