『クロンダイク』マリナ・エル・ゴルバチ

原題:Klondike

監督:Maryna Er Gorbach

 

東京国際映画祭にて鑑賞。

 

ウクライナに在りながら、親ロシア派勢力が高まるドネツク地方で、「壁」を失った家に住み続けようとする子を宿した妻と、何とか逃げようとする夫。イデオロギーらしきものによって引き裂かれようとしているはずだが、実は一人一人が自分の保身のために必死になっているだけであり、先に来るべき大儀が後からついてくるような現実が具に描かれる。だからこそなのか、今ここに在るものですら不確かであり、ただ確実なのは今ここに無いものの方である。本作で最も「存在」感があるのは、無くなった壁。それ自体は見えないからこそ、別のもの(向こうにある、本来は見えないはずのもの)を見せる、〈喪失〉が産む視界にこそ、目をそらせない現実が侵入してくる。

 

外部の現実(社会の論理)が家の内部(個人の領域)に侵入するという構図ではなく、それらを隔てるべき存在(「壁」)が消えたことで内外の区別は消失し、私的空間と公共空間のどちらもがそれぞれの空間としての価値を失ったことを意味するように思える。

 

「自分自身のリアリティ、自分という唯一無二の存在のリアリティ、そして自分をとりまく世界のリアリティを疑問の余地なく確立するためには、現れの空間、言論と行為を通じて一緒にいることに対する信頼がなければならない」とハンナ・アーレントは言っているが(『人間の条件』)、そうした空間が成り立つためには「外から見えない空間」としての内部(私的空間)が必要なのだという。本作ではまさに、そうした条件が奪われ、それでもなおそこで生き続けようとする主人公が描かれる。なぜ、彼女はそうした状況で生きることに固執するのか。選択の余地がないからなのか。それとも、そこには何らかの積極的理由があるのか。

 

彼女の周りの男たちは自身の「私的空間」の確保を諦めている。だからこそ、誰かがそうした「内部」を持つこと(自分だけの隠しごと)を許さない。自由な思想への嫉妬が憎悪へと変わる。個人であることは許されず、派として生きる道を常に迫られる。「壁」がないとは、そういう状況なのだ。

 

しかし、妊婦であるイルカには、不可侵の内部がある。しかも、自分だけしか感じることのできない内部。外界から隔てられ、自分だけで育んでいる内なる世界。彼女自身が「壁」となり、ただただ胎児を護るだけ。「壁」とは内外どちらとも接するものであり、どちらにもつかないものである。

 

「壁」の喪失が分断の始まりであるという皮肉は、「全体主義の起源」を示唆しているのかもしれない。そうした世界では、自ら「壁」となることでしか、私的空間の確保(個人として生きる)はできぬのかもしれない。だから「どちらかについた」瞬間、それはもう一方によって消される宿命となる。しかし、どちらとも友好的でいると、「壁」の務めは果たせない。外部には背を向けつつ、内部を抱えようとするときにこそ、「壁」の矜持が起ち上がる。

 

ラストシーンにおいて主人公はそれを完遂するが、と同時に彼女は「壁」でなくなり、産み出された「内部」は「壁」を失った。外にさらされた新たな命に希望は見出せるのか。そこには重い問いだけが横たわっている。

 

Klondike (Original Motion Picture Soundtrack) - Album by ...