『ゴッド・セイブ・アス マドリード連続老女強姦殺人事件』ロドリゴ・ソロゴイェン

原題:Que Dios nos perdone

監督:Rodrigo Sorogoyen

 

 

 

 

今年の東京国際映画祭で三冠(グランプリ、監督賞、男優賞)を獲得した『ザ・ビースト』の監督ロドリゴ・ソロゴイェンの2016年の作品。『ザ・ビースト』を映画祭で観た直後にスターチャンネルでたまたま放送していたため、絶妙なタイミングでソロゴイェンの監督作を見ることができた。『おもかげ』も見応えのある独特な作品として味わい深かったが、本作はよりわかりやすく『ザ・ビースト』の源流となっている気がした。

 

「ゴッド・セイブ・アス」というタイトル(英題「May God Save Us」)には皮肉が込められている。法王がマドリードに訪れるのを前に、事件を揉み消して「平穏」で「秩序」ある街に保とうとする現実。更には、事件解決の決め手となる情報やアイテムに教会が関わってくるということもあるだろう。しかし、実際には多くの命が失われ、犠牲なしには解決しない事件の実態からは、"SAVE"とは言いきれない"MAY"の重みがのしかかる。神を信じるとも信じないとも言いきれない(言いきらない)この感じは、『ザ・ビースト』の展開にも通じている気がする。

 

タイトルに副題(「マドリード連続老女強姦殺人事件」)が付くと一気にジャンル物の様相を呈してしまうが、『おもかげ』や『ザ・ビースト』がそうであったように、ソロゴイェンが最も描きたいのはサスペンスやスリルではなく、ひとりひとりの人物である。主要人物のいずれにも分け入っては掘り下げる描き方は、軸の移動によって観る側の視点が漂ってしまうといった「難点」がありつつも、そうした幾度かの転換こそがソロゴイェン作品の魅力なのかもしれない、と三つの作品を観て思い至った。ただ、登場人物それぞれのドラマが相互にどう作用するかといった点には積極的に介入しない脚本は、物語の「編み上がり」が観る側の興味や姿勢に委ねられ過ぎている気がしなくもない。三つの作品に共通する、途中で起こる(何度かの)「転調」をどう受けとめるかで、作品への没入感が大きく分かれそうな気がする。

 

脚本、撮影、編集、音楽など、ソロゴイェン組ともいえるスタッフが結集して制作しているという点でも、ソロゴイェンの作風を際立ったものにしているが、個人的には、オリヴィエ・アルソンの音楽がもつ唯一無二の質感による魅了は不可欠なように思う。今後要注目のコンポーザーの一人なのではないだろうか。

 

ジャンル物とは異なる人間模様を主軸とした作品であるとはいえ、ジャンル物が提供するサスペンスやスリルをも巧みに内包してはいる。ただ、それは映画の構成要素というよりは、映画というメディアの醍醐味として細部に宿されている。街中の人混みで展開する追走劇であったり、誰かがいそうな部屋の不審さであったり、大きな仕掛けから細かな作法までを駆使して娯楽性のスパイスを効かせている。ただし、肝心な着地においては「禁欲的」に振り切る。そうしたバランス感覚が今後どのような形で作品に活かされていくのかが楽しみでもあり、監督に大きな飛躍をもたらす分水嶺になりそうな気がする。

 

Que Dios nos perdone (2016) - Filmaffinity

Entrevista Javier Pereira Que Dios nos perdone