『野原』ローベルト・ゼーターラー(新潮クレスト・ブックス)

(浅井晶子 訳、新潮社、2022年)

 

ブルーノ・ガンツの遺作となった『17歳のウィーン』の原作者でもある、ローベルト・ゼーターラー(原作本は『キオスク』東宣出版)。

 

前作『ある一生』も新潮クレスト・ブックスより刊行され好評のようだが(私は未読)、本作の味わいも滋味深い。ゼーターラーの作品は「einfach(素朴、単純、簡単)」とよく評されるそうだが、一元とは程遠い「素朴」「単純」の豊かさが朴訥と佇んでいるような、ささやかな作品。

 

オーストリアの小さな町にある「野原」と呼ばれる墓地。白樺の木の下のベンチで、一人の老人が聞く死者の声。その「声」によって紡がれる29の生。それらは、人生を包括するような回顧もあれば、ほんの一コマに焦点を絞った語りもあるし、どこかボンヤリした述懐や、特定の誰かに向けたメッセージだったりもする。語り手の主観が前面に出ているようであり、聴き手の受けとめによって成立するようでもある。

 

それらの声によってこの町「パウルシュタット」の姿が浮かび上がってくるという評があるが、私にとっては「ひとつの人生」へと収斂していくようにも思えた。なぜなら、29の声はすべて一人の男によって聞かれるからだ。

 

「実のところ——男は、死者たちの語る声を聴いていると信じていたのだった。なにを話しているかはわからなかったが、死者たちの声は、あたりの鳥のさえずりや虫の羽音と同じように、はっきりと聞こえた。ときには、いくつもの声の塊のなかから個々の単語や文章の断片が聞き取れるような気もしたが、どれほど懸命に耳を傾けても、それらの断片が集まって意味を成すことはなかった。」(7頁)

 

私たちは生きているなかで、多くの人と出会い、多くの人の話を聞く。しかし、それは耳にすることすべてを聞き、それらすべてが意味を成すわけではない。しかし、そのとき聞き手となったからこそ、語られた話なのだろう。

 

最後の一人は次のように語り始める。

「生者が死について考える。死者が生について語る。いったいどういうことだ? 一方にはもう一方のことなんか、全然わかっちゃいないのに。推測はある。記憶もある。どちらも間違いかもしれない。」(234頁)

 

相手がいる、向こう。こちらから語りかける、向こう。同化できないからこそ、語りかけられる、聞いてくれる人。しかし、そこで、すべての意味が「為される」わけではない。29の声に、自分にしかわからない、他の人なら違って語る、たったひとつの真実があったように。ひとりで生まれてきたように、ひとりで死にゆく人間なのだから、自分の部屋からみた景色だけしか語れない。

 

でも、そうした言葉が行き交う世界を生きている。ひとつの「野原」に集められた死者たち。墓碑は生者と違って動きはしない。しかし、だからこそ固定しがたい言葉を発し続けているのかもしれない。